「邪教・幸福の科学」の正体

30年の活動信者。退会後のカルトを語る。

六畳ひと間の事務所 86年11月発足記念座談会

「邪教・幸福の科学」の正体 - 虚業教団

《六畳ひと間の事務所からのスタート》

 

大川の本を読み返してみると、86年6月に諸霊から「会社を辞めよ」と勧告され、神理に生きる決意を固めたことになっている。

4月下旬の「作古」での話は、たぶん諸霊の勧告を迎えるための根回し、ということにでもなるのだろう。

中原幸枝が嬉しそうな声で電話してきたのは、しばらくたってからだった。

「関谷さん、学習会の名前が決まりましたよ」彼女の声は弾んでいた。

「大川先生の案で〈幸福の科学〉とすることに決まり、今日から会員募集に入りました。

関谷さんも、会員番号を登録して一緒に学んでくださるでしょう?」

コウフクノカガクという言葉に少し戸惑ったが、即座にOKした。

幸福の科学、なかなかいいじゃないか。

宗教臭くないその名前に、私も好感を持った。

「今度、入会申込書に記入してくださいね。関谷さんの会員番号は18番ですよ」

「エッ18番?もう、そんなに大勢 入ったのですか」

正直に言うと、たった一日で10人も20人も同志が集まるとは思いもしなかった。

しかし考えてみれば不思議ではないのだ。

中原の周辺には、その人柄や考え方を慕う人たちが大勢いたのである。

ヨガのスタッフや生徒がその後も続々と参加し、会はたちまち100人にも膨れあがった。

今あらためて〈幸福の科学〉の順調なスタートを振り返るとき、中原幸枝の道を求める まっしぐらな熱意によるところが、いかに大きかったかを痛感する。

彼女の純粋で強烈な求道心。

良くも悪くも、それがまわりを巻き込んでいったのである。

大川の霊言を読んで参加した山田篤、安岡一男のような人たちもいた。

しかし全体としては、大川隆法の会というより、中原が中心の会という感じがあった。

ただ中原は「大川先生、大川先生」と最大限の敬意を込めて持ち上げていた。

「中原さんがあれだけ尊敬するのだから、さぞかし立派な先生だろう」

初期の会員の多くは、おそらくそんな気持ちだったのではないかと思う。

ここに陥穽があった。

中原や私が望んだものは信仰に凝り固まった宗教団体ではなかった。

私たちは学習の場をつくろうとしたのである。

大川隆法という宗教的天才を先生として、歴史に現れた神の理法を学び、実践していく学校。

そう学校だ。

霊言や「作古」での話し合いから、私はそんなものをイメージしていた。

この点では、少なくともその言葉を信じるかぎり、大川の考えもそんなにかけ離れたものではなかっただろう。

幸福の科学は、いわゆる宗教にはしたくない」

ハッキリと彼は断言していた。

しかし私たちは、中原の大川賛美を無条件に受け入れることで、個人崇拝への道を敷いてしまったのではなかったか。

自分の写真を宗教法人幸福の科学〉の本尊とし、自らを仏陀の生まれ変わり、

宇宙の最高霊エル・カンターレであると称するような、ある種の〔狂気〕に道を開いたのではないか。

仏陀は涅槃に入る前に、弟子たちを集め「これからは人を師とするのでなく、法を師とせよ」と説かれた。

慚愧の念なしに、私はこの教えを思い出せない。

悪評を買った91年の〔御生誕祭〕に「星の王子さま」さながらの姿で演壇に登場したエル・カンターレ

冷やかし半分のテレビでそれを見せられ、複雑な思いを味わった人も、初期の会員には多かったに違いない。

だが当時、そんな日がやってくるなどと誰が想像しただろうか。

その夏、中原は軽井沢にある父親の別荘へ大川を案内した。

すでに大川は7月半ばでトーメンを退職していた。

中原家の別荘で、大川は『正心法語』『祈願文』の二つを書きあげて戻ってきた。

覚えやすい七五調の現代語で会の指針を説く『正心法語』は、今でも会の「お経」になっているはずである。

 

大宇宙に光あり

光は神の命なり

命によりて人は生き

命によりて歴史あり

命は永遠に不変なり…

 

言葉は今でもスラスラ、ロをついて出る。

学校の校歌みたいだと、意地の悪いことを言う人もいる。

しかし私たちは、そこに霊性時代の幕開けの声を聞いたのである。

指針は示された!

誰もがワクワクしていた。

特に若い会員は熱っぽく語り合い、イキイキと働いた。

彼らの手で『正心法語』『祈願文』はワープロ打ちされ、コピーされ、紐とじされて、表紙には金色のスタンプが押された。

「手作りのこの二冊が、将来はとても価値あるものになるのね」

誰もが中原のそんな熱意に動かされ、喜んで作業に励んだ。

新しい価値を自分たちの手で創り出しているのだという感動をみんなが共有していた。

そしていつの間にか、この会なしに神理の探究は不可能である、と思い込んでいったのである。

最初の事務所は、杉並区西荻窪にある中原の自宅を改造した六畳一間だった。

中原は改築のために、なけなしの貯金をはたいた。

デスク代わりの小さなちゃぶ台が一つに、茶碗が五、六個。

部屋の一部がカーテンで仕切られ、そこで大川が相談者の話を聞くことになっていた。

そこに息苦しいほどこもっていた若者たちの熱気を私は懐かしく思い出す。

 

《86年11月発足記念座談会》

いよいよ会として第一回の会合を開くときがきた。

幸福の科学発足記念座談会」が行われたのは、この年の11月23日である。

場所は、中原ヨガの教室があった日暮里の酒販会館。

後の〈幸福の科学〉のイベント会場が、あの東京ドームであることを考えると、いかにも慎ましく、ささやかな出発だった。

私は大川と中原をクルマに乗せて会場へ向かった。

不慣れな道のために、予定時間を少しオーバーして到着した。

はじめての会合を前にして、大川は不安だったようだ。

テープに霊言を吹き込むことはあっても、大勢を前にして話す経験はなかったから当然だろう。

気持ちを落ち着けたいという大川の提案で、三人は喫茶店で一服してからビルの四階にあるヨガ教室へ上がった。

会場は、会員の手できれいに飾りつけられていた。

手作りの暖かさに私はホッとし、会の成功を確信したのを覚えている。

左端に屏風が立ててあり大川と中原はその陰へ入った。

ビデオ録画を担当することになっていた私は二人と別れ、聴衆の後ろから演壇へカメラを構えた。

そこには、70~80人が集まっていた。

まず司会役の中原が登場し開会の挨拶をした。

彼女はかなり緊張しアガっているように見えた。

最初は言葉も しどろもどろだった。

しかし最大級の賛辞で大川を紹介することは忘れなかった。

内容はもう覚えていないが、ひとつだけ強く印象に残っている言葉がある。

「大川先生が誰の生まれ変わりか、いずれわかるときがくると思います」

中原の紹介を受けて、大川本人が登壇した。

いよいよ大川隆法先生の第一声。

霊言集の偉大な霊能力者が何を語り出すかと、聴衆は固唾をのんだ。

カメラを支える私の手も思わず力が入った。

大川主宰は、しかしアガっていた。

少なくとも私にはそう見えた。

後に何千人、何万人を前にして堂々と演説する大川の姿ではなかった。

話がどこか上滑りしている。

誰も笑わないような冗談を言って、一人おかしがっている。

「炎を見てモーゼは火事だと思ったのですね。でも119番できないんですね。電話がないから……アッハ、ハ」

人間ならアガりもするだろう。

私はむしろ、そんな大川隆法に親しみをおぼえる。

その日はGLA教団の教祖である故高橋信次の霊の指導を受けて講演すると、前もって聞いていた。

生前の高橋信次の講演は、私もよくテープで聞いた。

早口だが、張りのある高橋の声は、言霊(ことだま)と呼ぶにふさわしい威厳とパワーに満ちていた。

テープで聞く高橋の早口を大川はマネしているように聞こえた。

(おかしいな)と私は思った。

(霊言を収録するときは、信次先生の魂が大川先生の肉体を自由に支配するのだから、ここでも、そうされたらいいのに。

霊言と指導が違うなら、なにも信次先生のように早口になる必要はないと思うけれど……)

心の中でこう つぶやいた。

(やっぱり大川先生ご自身のお考えで話されているのかな)

しかし講演の内容は素晴らしく、誰もが霊的世界を実感できるようなものだった。

会場には、やがて〈幸福の科学〉の局長となる細田勝義、大沢敏雄らもいた。

後に四代目の活動推進局長になる大沢が最後部から、熱血漢らしい質問をぶつけていたのを思い出す。

創価学会の会員集めに辣腕を振るったと言われ〈幸福の科学〉でも89年からの拡大路線では強力な推進力となった人物である。

その大沢が「リュウホウ先生、リュウホウ先生」としきりに発言した。

それまで〔大川隆法〕は、大川タカノリであった。

本にもそう書かれていたし、私たちもそう呼んでいた。

しかしこの日の大沢の発言をきっかけに、タカノリはリュウホウに変質していったのである。

ともかく発足記念座談会は成功に終わった。

帰りはレストランで食事し、今日の話題に花を咲かせた。

大川も中原も私も一様にホッとしていた。

これから楽しいことがはじまりそうだ……

私は嬉しくてしかたなかった。

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