「邪教・幸福の科学」の正体

30年の活動信者。退会後のカルトを語る。

これがフライデー事件の真相だ

「邪教・幸福の科学」の正体 - 虚業教団

あのフライデー事件における〈光の戦士〉たちの行動を思い出してみよう。

フライデー事件の背景となったのは、大川が90年に発表した「サンライズ計画」、翌年の91年にブチあげた「ミラクル計画」による会の極端な膨張である。

私が退会した89年には実数で1万数千人の会員がいた。

それが90年になると、わずか1年間で17万に増えている。

さらに「ミラクル計画」では、91年に100万人、92年に300万人、93年には会員1000万人を目標に設定した。

正常な判断力があれば、この計画そのものに、すでに異常が潜んでいることに気づくだろう。

しかし、仏陀が掲げた目標である。

会員を動員し、出版、新聞、テレビ・ラジオを使った大キャンペーンが打たれる。

その経費が20億円とも言われている。

その結果、91年には200万人を突破し、92年をすぎると、会員のあいだでは500万、700万という数字が噂されるようになる。

仏陀の宣言した目標は着実に達成されているのである。

もし、この数字がほんとうに達成されていると信じる会員がいたら、おめでたいと言うしかない。

私のところへ集まってくる話では、実数はせいぜい100万人。

しかも、そのほとんどは、おつきあいで入った月刊誌だけの誌友会員である。

熱心な会員と呼べるのは10万人程度ではないだろうか。

大川の説く神理に実践がともなわなかったように、会員の数も実態のともなわない数字でしかない。

それでも目を見張るような発展ぶりである。

86年に開かれた発足記念座談会の聴衆は わずか70人。

それが5年後には、東京ドームを満席にするのである。

たいへんな躍進と言わなければならない。

しかし、出るクイは打たれる。

短期間に急成長を遂げ、紀尾井町ビルのワンフロアを借り切って、華々しいキャンペーンを繰り広げている新宗教に、マスコミが噛みつかないはずがない。

霊能力者ならずとも予想できることである。

案の定〈幸福の科学〉バッシングが始まった。

″御生誕祭″の二カ月後、写真週刊誌『フライデー』に批判的な連載記事が掲載される。

「急膨張するバブル教団『幸福の科学』/大川隆法の野望」。

記事は悪意と中傷に満ち満ちたものだった。

すでに自分の生活に戻った中原幸枝のプライベートにまで、無遠慮にカメラが向けられた。

なかでも大川を激怒させたのは、「学生時代の大川はうつ病精神科医にかかっていた」という箇所だった。

名誉棄損罪で出版元の講談社と、フライデー編集長を東京地裁に告訴。

講談社には300人あまりの会員が抗議デモをかけ、同時に抗議電話が殺到。

ファックスも絶え間なく送られてくる抗議文に占領されて、業務にも支障をきたす事態になった。

「これは宗教戦争であり、聖戦である」

大川はそう宣言している。

前後の会の動きを、私が知り得たところをもとに再現してみるとこうなる。

まず、会としての対応を検討するために、紀尾井町ビルの本部に課長以上の幹部40名ほどが招集された。

会議は前後二日におよんでいる。

最初は「こんな写真誌の記事は無視しょう」という穏健な意見が大勢を占めていた。

それに対し、大沢敏夫ら数人の幹部が「そんな意気地のないことでどうするか」「今こそ仏陀様に恩返しするときである」と強硬に主張して譲らなかった。

両者の議論は白熱し、会議というよりはケンカに近い様相を呈してきた。

このとき穏健派を代表していた幹部の一人、前川節が主宰室に呼ばれている。

何事かを大川と話し合い、再び席に戻った前川はすっかり大沢グループに豹変していた。

これがその場の情勢を一変させる。

〔正義のための闘い〕へ向かって動き出したのである。

この会議の最中、大川家から二度ほどファックスが送られてきた。

「大衆受けするよう整然とした隊列をつくること。目立つように盛大におこなうこと」といった内容が記されていた。

講談社への抗議デモの具体的やり方を、主宰夫人が指示してきたのだ。

おそらく抗議デモの一件は、大川夫妻と大沢のあいだで、あらかじめ決定されていたのだろう。

会議の参加者は、そのまま中野にあるオリンピックビルの研修場へ移動した。

そこには すでに、関東支部の会員300人ほどが動員されていた。

彼らを前に、大沢、そして大川が拳を振り上げながら熱烈なアジテーションをおこなっている。

「我われは、魔に対して断固として闘う。キリストをはじめ、天上界の天使たちもそうせよと言っている」と、天狗の団扇を正面に突き出して宣言したのだ。

右の頬を叩かれたら左の頬を出せと説くキリストが、まさかそんなことを言うとも思えないが、霊言とはまことに便利なものではある。

かくして、講談社へのイヤガラセ部隊の出陣となった。

しかしこの滑稽劇にはまだ続きがあった。

デモ終了後、会員たちは再び研修場へ戻り、講談社への抗議文を書かされた。

ほとんどの参加者はそのとき渡されたコピーで、はじめて記事を読んだ。

主宰先生の結婚式の写真なども載っていたから、大川の私生活については何も知らされていない会員たちは、大喜びで読みふけったという証言もある。

デモで疲れているのに、さらに「抗議文」を書けという。

被害を受けた感じもしないので何を書いていいかわからず、戸惑った参加者も少なくなかったらしい。

こうした会の対応が世間の批判を浴びると、景山民夫らが中心となって「講談社=フライデー被害者の会」を結成し、市民運動を装いながら抗議を法廷へ持ち込んだ。

もちろん市民運動でも何でもない。

言うまでもなく、〈幸福の科学〉本部の指示でつくられ、命令にしたがって動いている。

また抗議電話や抗議ファックスに関しても「止むに止まれぬ気持ちから会員が自発的におこなったもの」と会は釈明したが、

たとえ止むに止まれぬ気持ちからでも、本部からの指令に基づいていたであろうことは断言してもいい。

会の体質からして、大川の指示がなければ何一つできないのである。

阿南事件で残った古い会員もフライデー事件をきっかけに多くが会を去っている。

拡大拡大できた会員の獲得もかげりが現れ、資金面で行き詰まっていると聞く。

フライデーは、まさに〈幸福の科学〉のつまずきの石になった。

景山民夫小川知子らが、もうしばらくの間は続けるであろう熱唱にもかかわらず。

そこで思い出すのが、昭和31年に起きた立正佼成会の読売事件のことだ。

昭和31年1月から、読売新聞は大々的な反・立正佼成会のキャンペーンを張った。

発端となった土地買い占めは、会そのものとは無関係だったことが間もなく判明するが、

キャンペーンは教団幹部への個人攻撃や教義内容の批判へ発展し、およそ3カ月間にもわたってつづいた。

36万の信者世帯をわずか1年で30万に激減させたというから、その激しさを想像できる。

これに対し立正佼成会は、関係機関に内部調査の結果を配った以外は、完全に沈黙を守った。

「読売の記事がウソなら佼成会は告訴すべきではないか」という声にも、報復は宗教団体のとるべき道ではないとして動こうとしなかった。

攻撃の止んだ4月になって、次のような文章が『佼成新聞』に発表されている。

「われわれは批判に対してなんら躊躇する必要はないし、むしろ私どもに足りない所があるなら、もっともっと新聞に書いて、諫めていただきたいくらいです。

衷心から感謝申し上げると同時に、私どもはいつでも多くのかたの批判をありがたく頂戴し、

自分に至らないところがあれば、即座に直すだけの寛容さがなければなりません」

そして、自分たちを高めてくれる師として″読売菩薩″と呼んだのである。

このようなものを反省と言うのではないだろうか。

これに反し「反省とは自らを省みるということ。他を責めるという気持ちから、自らをもう一度振り返ってみる。こういう考えが大事です」(『不動心』)

こんな一般論を、いくら口先でしゃべってもダメなのだ。

高橋信次は「反省こそが法なのだ」と繰り返し語っている。

「人につかず、組織につかず、法につけ」 は生前の口癖だった。

フライデー事件は、人につき、組織につき、かわりに法をなくしてしまった会の実態を衆目にさらしたのである。

仲間と一緒に夢を抱き、命懸けでつくりあげてきた〈幸福の科学〉。

こんなものをつくるために、私たちは人生をかけたのか……。

それはすでに、私たちがつくろうとしたものとは、まるで違うものだった。

──中原よ。

君は「信次先生のご逝去以来、ようやくの思いで心の師となる人を見つけることができた」と私たちに語った。

あのときの輝きに満ちた君の表情を今も思い出す。

しかしその人は、少なくとも私たちの心の師ではなかった。

それでは、いったい何が私たちに、あの青年を心の師と思わせてしまったのだろう。

中原よ。

あれほど厳しく自分の心を見つめようとしていた君も、阿南も、私も、肉体を持つ誰かに神を、生きる指針を見いだしたかったのだろうか。

sakurakaory.blog.fc2.com